約 918,382 件
https://w.atwiki.jp/2011311/pages/9.html
動画(youtube) @wikiのwikiモードでは #video(動画のURL) と入力することで、動画を貼り付けることが出来ます。 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/17_209_ja.html また動画のURLはYoutubeのURLをご利用ください。 =>http //www.youtube.com/ たとえば、#video(http //youtube.com/watch?v=kTV1CcS53JQ)と入力すると以下のように表示されます。
https://w.atwiki.jp/2011311/pages/52.html
2012年 2012年6月 6月3日 「『「危険な話』の危険なウソ」の「不安全」 2012年 , .
https://w.atwiki.jp/2011311/pages/74.html
2007年5月 ビルマ・ミッチナの従軍慰安婦の尋問調書(その1-1) この間問題になっていた、ビルマ・ミッチナの従軍慰安婦の尋問調書について整理したいと思います。 ビルマ・ミッチナの従軍慰安婦の尋問調書にはいくつかのバージョンがあるようです。『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』政府調査文書(アジア女性基金1997年刊)には2つの調書が収録されています。 1つは、 文書A. ATIS Research Reports No. 120 Amenities in the Japanese Armed Force, Nov. 15, 1945, 連合軍通訳翻訳部(ATIS)調査報告第120号 日本軍における各種アメニティー 1945年11月15日 の b. BURMA の項 もう1つは 文書B. UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Report No. 49 Japanese POW Interrogation on Prostitution. 米軍情報部心理作戦班 売春についての捕虜尋問報告No.49 です。 古森義久氏が一部引用した、 文書C. A JAPANESE ARMY BROTHEL IN THE FORWARD AREA. は、文書Bと同じO.W.I米軍情報部の文書だが、文書Bを最終報告とすれば、その中間報告のようなものとおもわれます。 そして、文書Cと文書Aのの記述内容については、古森氏が引用した部分しか重ね合わせることができませんが、今のところ全く同じものといえます。 つまり、ひとつの推測として、米軍情報部心理作戦班の文書を、連合軍通訳翻訳部(ATIS)がタイプしなおしてファイリングしたことなどが考えられます。 以上のことは、専門研究者の考証の結果を待ちたいと思います。文書Aをアップしたいと思っています。 「美しい壺日本」 http //dj19.blog86.fc2.com/blog-date-20070521.html が紹介した、 Stiffmuscleさんの翻訳を土台にして、私の勝手な意訳を加えてみました。文責は私にあります。(漸次修正を施しますので、おかしな点はご指摘願います) (以下 引用) ~~~~~~~~~~~~~~ アジア女性基金-歴史の教訓とする事業 http //www.awf.or.jp/program/index.html 『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第5巻p.177-179。 *日本語簡訳はp.113-115(いずれもAcrobat Readerのページ表示) 【文書Aの表題】 ATIS Research Reports No. 120 Amenities in the Japanese Armed Force, Nov. 15, 1945, 連合軍通訳翻訳部(ATIS)調査報告第120号 日本軍における各種アメニティー 1945年11月15日 b. BURMA b. ビルマ (1) A prisoner of war, a civilian brothel owner captured with his wife and twenty army prostitutes near WAINGMAW on 10 August, 1944 stated (1) 捕虜、1944年8月10日ワイモウ付近で、その妻および従軍売春婦20名とともに捕獲された売春宿経営(民間人)の供述: ※)米軍が撮影した写真中の年配の日本人女性は、楼主の妻だと思われます。雲南・ビルマ最前線における慰安婦達―死者は語る www.awf.or.jp/program/pdf/p061_088.pdf より 【応募した業者】 “Prisoner of war, his wife and sister-in-law had made some money as restaurant keepers in KEIJO, KOREA, but their trade declining. They looked for an opportunity to make more money and applied to Army Headquarters in KEIJO for permission to take “comfort girls” from KOREA to BURMA. According to prisoner of war, the suggestion originated from Army Headquarters and was passed to a number of similar Japanese ‘business men’ in KOREA. 捕虜、その妻、および義理の姉妹は、朝鮮の京城にて食堂経営者としてそれなりに稼いでいたが、客足は減ってきていた。彼らはより多く稼ぐ機会を得ようと、京城の陸軍司令部に応募して、「慰安婦」を京城からビルマへ連れて行く許可を求めた。捕虜によると(応募して許可を求めるようにという)示唆は、もともと陸軍司令部から出たもので、同じような多数の日本人「業者」にもそれは伝えられていた。 【慰安婦の徴募と軍の支援】 “Prisoner of war purchased 22 Korean girls, paying their families from 300 to 1000 yen according to the personality, looks, and age of the girl. These 22 girls were of ages from 19 to 31. They became the sole property of prisoner of war and the Army made no profit from them. Headquarters, Korean Army gave him a letter addressed to all military headquarters of the Japanese Army, requesting them to furnish any assistance he might require, ransport, rations, medical attention, etc. 捕虜は朝鮮人女性22名を買った、女性の性格、容姿、年齢に応じて300~1000円を彼女の家族に支払った。これら22名の女性の年齢は19~31歳であった。女性たちはこの捕虜の占有財産となり、陸軍は彼女たちから儲けを得なかった。朝鮮の日本軍司令部は、(経由地)全ての陸軍司令部宛てた書簡を捕虜に与え、移送、食糧、医療など、捕虜が必要とした場合の援助は全て提供するよう要請した。 (※)慰安婦の徴募が虚偽の説明によって行われたことは、文書Bに詳しい 【釜山からラングーンへ】 “Leaving his sister-in-law to carry on the restaurant, prisoners of war and his wife, with their 22 girls, embarked at FUSAN on 10 July 1942 in a group of 703 girls, all Korean, and some 90 Japanese men and women, all of them of the same base sort as himself. They sailed on a 4000 ton passenger ship in a convoy of seven ships. Free passage tickets were provided by Army headquarters, but prisoner of war paid for all meals during the voyage. They called at FORMOSA, where 22 other girls bound for SINGAPORE were taken on board, and at SINGAPORE they transferred to another ship, arriving at RANGOON on 20 August 1942. 食堂を続けるために義理の姉妹を残して、捕虜とその妻は22名の女性を連れ、全員が朝鮮人からなる女性703名、および全員が捕虜と同じ類の者たちからなる日本人男女およそ90名の団体の一員として、1942年7月11日に釜山を出航した。7隻からなる船団の中で、一行は4000トンの旅客船に乗って航行した。陸軍司令部からは無料乗船券が提供されたが、航海中の食事は捕虜が全額支払った。台湾に寄港した際、シンガポールへ向かう女性22名が新たに乗船した。その後シンガポールに寄港した際に、一行は別の船に乗り換え、1942年8月20日にラングーンに到着した。 【ラングーンから任地配属】 “At RANGOON they were divided into groups of 20 to 30 girls in each and dispersed to various parts of BURMA, each group being attached to various regiments, units of formation, so that each had its own brothel (s). ラングーンで、一行は20~30名ずつのグループに分けられ、ビルマ各地へ分散配置された。各グループがさまざまな連隊、部隊、もしくは中隊に配属された結果、各グループがそれぞれの売春宿を持つこととなった。 ※) 部隊側側から見れば、駐屯地ごとにそれぞれ慰安所を持つことになった。 占領国ビルマに設置された軍慰安所 【ミッチナの慰安所】 “Prisoner of war’s group was attached to 114 Infantry Regiment. They spent some months at GOUNGOO, MEIKTILA, and at MAYMYO, following their trade, and then arrived at MYITKYINA (about January 1943). There were already two brothels established in MYITKYINA, so altogether there were three brothels with 63 girls in all prisoner of war’s house, known as KYOEI, with 22 Korean girls; the KINSUI house with 20 Korean girls; and the MOMOYA house with 21 Chinese girls, who had been purchased from CANTON on the same conditions as the Koreans. There were Japanese girls in houses in the rear areas, as for example at MAYMYO where they formed two of the eight houses there, but none in the forward areas. 捕虜のグループは歩兵第114連隊に配属された。タウングー、メイクテーラ、およびメイミョーで数ヶ月を過ごした後、同業者のあとを追って(1943年1月ごろ)ミッチナに到着した。すでにミッチナには売春宿2軒が設置されていたので、売春宿は3軒、女性は総計63名ということになった。内訳は、捕虜の売春宿であったキョウエイが朝鮮人女性22名、キンスイが朝鮮人女性20名、そしてモモヤが中国人女性21名であった。この中国人女性たちは、韓国人女性たちと同じようなやり方で広東で購入された。また、たとえばメイミョーでは8軒の慰安所のうち2軒が日本人慰安婦で成り立っていたように、後方地域の慰安所には日本人女性がいたが、(ミッチナのような)前線地域には日本人慰安婦はいなかった。 (つづく) 2007年5月 .
https://w.atwiki.jp/2011311/pages/17.html
トップページ デフォルトトップ @wikiへようこそ ウィキはみんなで気軽にホームページ編集できるツールです。 このページは自由に編集することができます。 メールで送られてきたパスワードを用いてログインすることで、各種変更(サイト名、トップページ、メンバー管理、サイドページ、デザイン、ページ管理、等)することができます まずはこちらをご覧ください。 @wikiの基本操作 用途別のオススメ機能紹介 @wikiの設定/管理 分からないことは? @wiki ご利用ガイド よくある質問 無料で会員登録できるSNS内の@wiki助け合いコミュニティ @wiki更新情報 @wikiへのお問合せフォーム 等をご活用ください @wiki助け合いコミュニティの掲示板スレッド一覧 #atfb_bbs_list その他お勧めサービスについて 大容量1G、PHP/CGI、MySQL、FTPが使える無料ホームページは@PAGES 無料ブログ作成は@WORDをご利用ください 2ch型の無料掲示板は@chsをご利用ください フォーラム型の無料掲示板は@bbをご利用ください お絵かき掲示板は@paintをご利用ください その他の無料掲示板は@bbsをご利用ください 無料ソーシャルプロフィールサービス @flabo(アットフラボ) おすすめ機能 気になるニュースをチェック 関連するブログ一覧を表示 その他にもいろいろな機能満載!! @wikiプラグイン @wiki便利ツール @wiki構文 @wikiプラグイン一覧 まとめサイト作成支援ツール バグ・不具合を見つけたら? 要望がある場合は? お手数ですが、お問合せフォームからご連絡ください。 トップページ , ,
https://w.atwiki.jp/2011311/pages/18.html
トップページ 2011年 2011年1月(未作成) 2011年2月(未作成) 2011年3月 2011年4月 一部復活 2011年12月 トップページ ,
https://w.atwiki.jp/2011311/pages/84.html
2011年4月 8年たっての復刻です。リンクアウトご容赦ください。可能なものから順次つなげていく所存です。 2日 「深刻な事態」とは?(2) 京大・小出裕章さんの話 京都大学原子炉研の小出裕章さんのお話 つづきです。転載します。 ======= 毎日放送ラジオたね蒔きジャーナル、今日は緊急地震速報の中(別途ラジオで音楽を聴いていて地震速報にびっくり!)、水野晶子さんの司会の中で、京都大学原子炉研の小出裕章さんのお話がありました。 その前に、ニュースで、汚染水を復水機に入れる「前の前の段階」がやっと終わったこと、小出先生が汚染水をタンカーで運ぶ案を言われたこと、メガフロートにより行う方向だそうです(海に浮かぶ大きな箱のことらしい)。静岡市の海釣り公園を流用するそうです。1万トンの水が入るそうです。 福島第1原発の放射能飛散防止のために、樹脂の散布の試験が行われ、埃などが抑えられるとの報告もありましたが、放射線測定計が不足し、作業員全員に行き渡っていないとのことです。5000個あったものの、津波で使えなくなり、使えるのは300個だけで、この後120個を追加するそうです(全員に持たせる)。これ、仕事をしてもらう東電が不安でないのに水野さん驚いています。また、半径20km以内に、自力で避難できない人が320人いるそうです。 それで、メガフロートの話、小出先生の案に似ているのですが、保管ならタンカーと一緒、ただ、タンカーに入れて、柏崎に行って汚染水を処理する必要があ り、水を入れて浮かべるだけでは、汚染水はどんどん出てくるので、海の上に置くのでは間に合わない、どんどん処理しないといけないので、メガフロートは水 を入れるだけになると言うことです。1万8000トンの容量で、この3週間で1万 トンの水が出ており、たまっているのは環境に漏れている(トレンチでは漏れてしまう、トレンチは単なるコンクリートの水路に過ぎず、水を入れることを想定 していないもので、コンクリートのひび割れからどんどん水が漏れるものだ)ということです。つまり、これから数ヶ月ならメガフロートひとつでは足りない、 全国からメガフロートを結集するのもいいことだというコメントでした。しかし、メガフロートは汚染水を想定していない、汚染水は泥水みたいなもので、放射 性物質は少なくてもものすごい放射線を出すので、メガフロートに入れても、放射性物質以外は、漏れないなら大丈夫、しかしその上に人がいるのはダメ、で管理上問題あり(放射線従事者が必要)なのです。処理するまで考えないとダメと言うことです。処理するのも、柏崎のものはこんな高濃度の処理は出来ないかも 知れない(日本には他に処理できる場所はない)ということです。放射性汚染水を処理するものは、柏崎か、六ヶ所村(こちらは再処理用、汚染水処理専用では なく、1万トンもの水は処理できない)なのです。 樹脂の効果は何かはある、敷地に降り積もり、飛び散るので、それを地面に固定する効果はあるとのことです。しかし「ある程度」であり、次から次へと樹脂で 固めないといけない、いたちごっこと言うことです。なぜ原子炉建屋が破壊したかは水素がたまったからで、布で包んでも同じことだそうです。 フランスの専門家が来ましたが、防護服、機材の提供を受けて、フランスは日本より多いが、原子力は核の技術と同じで、日本は核の技術を持ってはいけないと、戦後日本中の核研究施設をアメリカが破壊し、52年 にやっと許された、そのため日本の核研究は遅れて、日本に比べて、フランス、アメリカははるかに優れている、大洗の再処理工場はフランスの提供、六ヶ所村 は自前で出来ず、六ヶ所村もフランスに作ってもらったが、今回直面している廃液処理、原子炉冷却についてフランスは特別に優れてはいない、やることは他に ない、六ヶ所村をフランスが作ったので、それで優れているだけだそうです。 たまり水の処理経験はどこの国にもないということです。 福島県産の牛肉から放射能が出たこと、酪農家に打撃だが、セシウムが出るのは当然のこと、事故が起きてヨウ素、セシウムと揮発性のものが出て、土は汚れ、それを摂取するものは汚染されるものなのです。だから、一日も早く処理しないといけない、野菜も、政府は3回 続けて暫定基準値を下回れば出荷停止を解除すると言うのは、専門家がどうの、ではなく、放射能に被曝するのは全て危険であり、暫定基準値を上回れるとすぐ 危険、下回るとすぐに安全ではない、基準は個人により違うし、我慢する値であり、一律にやらない方がいい、福島の野菜が汚れている、誰も放射能を食べたく ない、一定レベル以上はダメとの基準を作ると福島の農家は破綻する、で、小出先生の案は、子供に食べさせてはいけない(子供は放射能に敏感)、大人は感受 性が鈍く、原発を許したのは大人であり、大人は甘受して食べるべきではないか、と言うのが小出先生の考え(都会が原発を地方に押し付けた)、どれだけ汚染 しているかを知らせて、汚染の高いものを大人が食べると言うことなのです。 線量計、全員に行き渡っていなかった、作業員の苦労に小出先生心配していたのですが、好ましくはない、こんな事態になる前に、東電は福島第2にも線量計はある、柏崎にもある、東電はせめられるべき、現場は極限であり、責められないが、あってほしくない事態であるとのことです。 飯館村はIAEA基準の2倍の避難数値であり、IAEAも原子力推進機関で、なるべく避難といいたくない期間が避難というのは大変なことであり、避難させないといけないということです。日本政府のデータからは、チェルノブイリの事故での強制避難地帯の何倍もの汚染で、放射線管理区域の100倍!の汚染であり(土1kgにヨウ素、セシウムの値が出ている)、日本の法令でも管理で、一般の人がいてはいけない、行政は黙っていてはいけない、しかし、避難=その場所を捨てろと言えるのか、という論理もあるのです。 国で、福島の牛肉、厚労省の再検査で放射性物質一切なしと発表されたのですが、検査の過程に問題があったと政府はしているのです。汚染されていないとの知 らせはいいのですが、セシウム検査は、放射性検査は難しい、発電所敷地内のヨウ素が何千万倍(原子炉再臨界の証拠、それは起こる可能性は低いと思っていたの で驚いた)と言うのが間違いという位のもので、今何もなしという測定はまた信じがたい、測定に科学的な検証がいるとのことです。正確なデータを公表すべ き、間違いを公表してはいけないとのお話でした。 今回はまた貴重なお話でした。テレビで一日何度も見るものが馬鹿らしくなりました。来週もお伝えします。 COMMENT AUTHOR mayuron DATE 04/03/2011 02 30 17 upありがとうございます。小出先生はまっすぐで尊敬できる本当の学者だと思います。 細かい点ですみませんが、IAEAは原子力推進「機関」ですね。 COMMENT AUTHOR ni0615 DATE 04/03/2011 06 33 45 To mayuronさん 細かい点ですみませんが、IAEAは原子力推進「機関」ですね。 ありがとうございます。 さっそく直しておきました。 2011年4月 ,
https://w.atwiki.jp/2011311/pages/61.html
トップページ 2007年 2007年5月 2007年6月(未作成) 2007年7月(未作成) 2007年8月(未作成) 2007年9月(未作成) 2007年10月(未作成) 2007年11月(未作成) 2007年12月(未作成) トップページ .
https://w.atwiki.jp/2011311/pages/68.html
2007年5月 やすうらハウスをぐぐてみたら やすうらハウスについて面白い記事がありました。 「ばとこいあ通信」といって、フォークソング同好の人たちの会報PDFのようです。 http //www9.plala.or.jp/batokoia/pdf/13th.pdf そのなかに、10ページ目 『軍都マーチ 2003.6.16』 という一文がありまして、軍都横須賀ならではの歌の歴史とオリジナルソングの歌詞が紹介されています。 (以下 引用) 軍艦マーチはパチンコ屋さんの音楽として今や定着している。 おかしな歌、変な歌、そして横須賀の雑踏の自衛官がセーラー服で闊歩する中で歌うと実にこの街によく合う歌です。 (中略) 東京 東雲楼の娼妓のストライキ(実は廃業届をだして救世軍に駆け込む) 同じ頃横須賀の柏木田遊郭でも同じような事件がおこっていた。 一方安浦やかいがさく という新興の遊郭はいわば国(軍部)の後押しでつくられた遊郭でありました。かいがさくという地名はみんなで作った町と言う意味であったそうです。 安浦にはいまだに売春地帯があり、ここは小泉潤一郎の自宅の裏にあります。 彼が総理大臣になった後でまさかの取り締まり強化で風俗店が営業できなくなリ倒産。店主が焼身自殺し店の下にあった運送屋が消防の水をかぶって飛んだとばっちりとは私の会社のことです。 写真説明は http //ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/165938/ 軍都マーチ (歌詞) ごみをあさって生きてきた アメリカ基地の残飯や 米兵のばら撒く チョコレート パンパンガールやシューシャイン 軍都の歴史はいつまでつづく 軍都の歴史はもうたくさんだ 幕末横須賀製鉄所 日清日露の戦役や 大陸侵略そのたびに 犠牲を払って生きてきた 軍都の歴史はいつまでつづく 軍都の歴史はもういやだ 震災復興の名を借りて 安浦埋め立てバラックに 88軒誘致して 貧しい娘を買い集め 軍都の歴史はいつまでつづく 軍都の歴史はもういやだ かしわぎだ やすうら かいがさく さんざん流れた女の涙 戦に負けたそのあとまでも GIならんだ安浦ハウス 軍都の歴史は奴隷の歴史 軍都の歴史はもういやだ 非核の三原則を踏みにじり 平気な顔で出撃し 付き従えと自衛隊 付き従いし護衛艦 軍都の歴史はいつまでつづく 軍都の歴史はもういやだ 強制連行外国人 借金背負った日本人 闇に沈んだ女の涙 暗い歴史のその上を プラスチックで飾り立て コンクリートで蓋をして その町の名は 平和都市横須賀 守るも攻むるもくろがねの 浮べる城ぞたのみなる うかべる此城日の本の 皇国の四方を守るべし 真金のその船日の本に 仇なすくにを攻めよかし 以上引用おわり また さよならメリーさん http //www.k2.dion.ne.jp/~dambala/top/merry.html 第5章 横須賀 http //www.k2.dion.ne.jp/~dambala/top/c-5.pdf には、 ●三大遊郭の興亡 明治時代より軍都として栄えた横須賀には柏木田、安浦、皆ヶ作(かいがさく)の三大遊郭が男たちの欲望に応えて きた(柏木田は公娼地、安浦と皆ヶ作は私娼地/岡場所 *注1)。横須賀に進駐した米兵たちも三大遊郭に頻繁に出 入りしていたといわれている。横須賀の花街も元はといえば、神戸同様、外国人のためにつくられたのが始まりだ。 (以上 ホンの一部引用) 2007年5月 .
https://w.atwiki.jp/2011311/pages/46.html
2012年9月 放影研の最新の論文は、「山下=鈴木、県民管理委員会」の根底を揺るがす DATE 09/28/2012 08 11 00 のiza blogを移転 標題の説明 放影研=放射線影響研究所 県民管理委員会=福島県県民健康管理調査検討委員会 山下=山下俊一、福島県立医科大学副学長、福島県県民健康管理調査検討委員会座長 鈴木=鈴木眞一、福島県立医科大学教授、福島県県民健康管理調査検討委員会オブザーバー、甲状腺検査担当の福島県災害医療調整医監 imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (1937466.jpg) imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (1937478.jpg) なお山下俊一さんは、もと放射線影響研究所理事長・長崎大学教授であった長瀧重信さんの一番弟子。つまり、「山下=鈴木、県民管理委員会」は、放影研の末裔なのです。 その放影研が最近論文を発表しました。最近といっても、3月のことだそうです。英文雑誌に発表したので、英文です。 「100ミリシーベルトまでは大丈夫、広島・長崎の経験が物語っている」 という、山下さんや鈴木さんの信念を、お二人の本社ともいえる放影研が覆してしまったのです。では、四の五の言わずに、論文をご紹介します。まえがき(要約)の部分です。 Studies of the Mortality of Atomic Bomb Survivors, Report 14, 1950-2003 An Overview of Cancer and Noncancer Diseases 原爆被爆者の死亡率の研究、レポート14、1950-2003 がんとがん以外の病気の概要 Kotaro Ozasa, Yukiko Shimizu, Akihiko Suyama, Fumiyoshi Kasagi, Midori Soda, Eric J. Grant, Ritsu Sakata, Hiromi Sugiyamaa and Kazunori Kodama This is the 14th report in a series of periodic general reports on mortality in the Life Span Study (LSS) cohort of atomic bomb survivors followed by the Radiation Effects Research Foundation to investigate the late health effects of the radiation from the atomic bombs. During the period 1950-2003, 58% of the 86,611 LSS cohort members with DS02 dose estimates have died. (1)これは、放射線影響研究所によって継続的に行われた、原爆被爆者コホートの一般的な寿命研究(LSS)にもとづく、被爆者の死亡率に関する14 番目ののレポートです。DS02 の線量推定によれば1950 年-2003 の間に86,611 人、LSS コホートメンバーの58 %が、死亡したことになります。 註解:「原爆被爆者コホート」とは、調査対象者を固定し一生調査しつづけることです。この第14報は、86,611 人を1950 年-2003 の間フォローした結果の報告だといってます。 The 6 years of additional follow-up since the previous report provide substantially more information at longer periods after radiation exposure (17% more cancer deaths), especially among those under age 10 at exposure (58% more deaths). Poisson regression methods were used to investigate the magnitude of the radiation-associated risks, the shape of the dose response, and effect modification by gender, age at exposure, and attained age. (2)以前のレポート以来6 年間を追加フォローし、被爆後の期間が延びた分のデータ(17%の癌死の増加)や、とくに被曝時10 歳以下においては(58%の癌死の増加)など、多くのデータを提供しています。ポアソン回帰の方法で、放射線関連のリスク、線量応答の形、性別、被曝時年令、到達年齢による影響の違いを解明しました。 調査の対象とした人たち全体では、被曝してない人に較べて17%の癌死の増加を見、被曝時10歳以下の人たちでは、43~53年間の人生で、同じ年代の被曝してない人に較べて、58%の癌死の増加をみました。 「ポアソン回帰」とは、線量が違う集団を比較するために、統計的に都合のよい区分けをする方法のひとつです。 The risk of all causes of death was positively associated with radiation dose. Importantly, for solid cancers the additive radiation risk (i.e., excess cancer cases per 10^4 person-years per Gy) continues to increase throughout life with a linear dose.response relationship. (3)死の原因となったすべてのリスクは、被曝線量と積極的に関連付けられました。重要なことは、固体癌の過剰放射線リスク(つまり、過剰症例10の4乗人・年/ Gy ごと) が、一生涯にわたって線形の線量―反応関係で増加を続けていることです。 「過剰放射線リスク」とは、被曝した人が被曝しない人に較べて何人多く亡くなったか、ということです。ここでは10万人の集団で、較べています。 「線形の線量―反応関係で増加」とは、反応(犠牲)の数が線量に比例して増加しているということです。 The sex-averaged excess relative risk per Gy was 0.42 [95% confidence interval (CI) 0.32, 0.53] for all solid cancer at age 70 years after exposure at age 30 based on a linear model. (4)男女平均の過剰相対リスクは、線形モデルで解析したところ、被曝時30 歳で70 歳までの全固形がんで、Gy あたり0.42 でした[95%信頼区間 0.32-0.53] 。 「過剰相対リスク」とは、被曝してない集団の癌死の割合を1としたときに、被曝した集団ではその割合が1よりどのくらい多くなったかを示します。1グレイあたり4割2分増しといってます。 The risk increased by about 29% per decade decrease in age at exposure (95% CI 17%, 41%). The estimated lowest dose range with a significant ERR for all solid cancer was 0 to 0.20 Gy, and a formal dose-threshold analysis indicated no threshold; i.e., zero dose was the best estimate of the threshold. (5)被爆時の年齢が10 歳下回るごとのリスクの増加は、約29 % でした(95 %信頼区間CI 17 %-41 %)。全固形がんにおける有意なERR(過剰相対リスク)が得られた最低線量区画は、0 から0.20 Gy の区画で、定式どおり線量-しきい値分析をしたところ、しきい値はありませんでした。すなわち、線量ゼロが最適なしきい値推定値だということです。 「被爆時の年齢が10 歳下回るごとのリスクの増加は、約29 % でした」ということは、被曝時0歳は10歳の29%増し、10歳は20歳の29%増し、20歳は30歳の29%増し、ということですから、1.29の3乗 = 2.15 で、被曝時0歳は被曝時0歳の115% 増しということになります。 「有意なERR(過剰相対リスク)が得られた最低線量区画は、0 から0.20 Gy の区画」とは、0~200mSvの区画で、統計的に確かなリスクの数値が得られたということです。200mSv以下では確かな値が得られなかったということではありません。 「線量ゼロが最適なしきい値推定値」とは、線量ゼロになるまで、いかに低線量の被曝であっても癌死のリスクがある、ということです。 The risk of cancer mortality increased significantly for most major sites, including stomach, lung, liver, colon, breast, gallbladder, esophagus, bladder and ovary, whereas rectum, pancreas, uterus, prostate and kidney parenchyma did not have significantly increased risks. (6)癌死亡のリスクは、胃、肺、肝臓、結腸、乳房、胆嚢、食道、膀胱、卵巣を含むほとんどの主要な臓器で有意に増加していました。直腸、膵臓、子宮、前立腺・腎臓では有意な増加は見られませんでした。 An increased risk of non-neoplastic diseases including the circulatory, respiratory and digestive systems was observed, but whether these are causal relationships requires further investigation. There was no evidence of a radiation effect for infectious or external causes of death. (7)非がん疾患のリスクは、循環器、呼吸器や消化器系を含んで観測されました。しかし、これらの因果関係があるかどうかは、さらに調査が必要です。感染または外因死については、放射線影響の証拠はありませんでした。 その他、情報はこちらで http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/3207.html 2012年9月 放影研の「原爆被爆者の死亡率に関する研究 LSS第14報」に関する資料 .
https://w.atwiki.jp/1h4d/pages/224.html
1時間1動画(1h1m)とは、1時間に1本お題に沿って動画を作る企画である。 第1回「忘れる」やまぽんぬ/ニャロメロン/東京えく